日本三大名園の一つ、偕楽園に行ってきました。
梅の名所です。高校時代は毎日仙波湖の周りを歩いて登下校し、この時期の土曜、半日で終わる授業の後に梅を眺めて帰ったこともある懐かしい場所です。
梅こぼれる、うっすらただよう春の香りの中ぶらぶらと散歩して、写真を撮って、懐かしい制服を着た子たちを時折見かけながら、10年くらい前のことをなんとなく思い返していました。
皆勤賞だった高校時代。一応は進学校で、ゼミで部活に行けないことも多かったけれど、三年生の大半を美術室で過ごしました。
カモやら黒鳥やら、季節の花々やらを眺めて登校して、授業を受けて、絵を書いて、やたらとラジオを聞いていた気がします。
庭の後、久しぶりにずっと小説を読んで夜更かしを繰り返しています。
今読んでいるのは現代パロディの二次創作で、登場人物の半分以上は中学生です。そのせいか、自分はどんな子どもだったろうと、懐かしい場所を歩きながら余計に考えてしまいました。
のんきに日々を浪費していたけれど、確かに何かを考えていて、傷ついていて、高校卒業を機に逃げるように家を出ました。
親はただ進学のための一人暮らしだと思っているでしょうが、私は未だに本気で、あの時家を出なかったら狂っていたと思っています。
おかげさまですっかり逃げ癖がつきました。
嫌なことや辛いことからは潰れる前に逃げる。心が拒否するものとは極力関わらない。
処世術というには幼いかもしれないけれど、自分を保つために必要なことでした。それは今でも変わりません。
私は自分で思っている以上に頑固でした。嫌なものは嫌なのです。
一月ほど前、祖母が亡くなりました。その二週間前に大叔父も亡くなりました。
近親者が亡くなったのは幼稚園時代以来で、その時も九州の祖父は滅多に会わない苦手な老人で、亡くなったから何が変わるということもありませんでした。
カッコイイと思っていた祖母や大叔父と、ふとした時にもう会えないと実感すると、気にしないようにしていても、しんどくなったりします。
祖母の家だったのに、いずれ叔父の家に認識が変わっていくんだろうなと思って、寂しく思いました。
祖母の家で、たくさんの写真が収まるアルバムを見ながら、90年生きた祖母の、還暦くらいからの姿しか知らないんだなとしみじみ思いました。
葬儀の時、叔父が話した祖母の生家や人生は知らないことばかりでした。
もっと、昔のことも話してもらえばよかったと、実家を厭うていないで帰省して顔を見せればよかったと、大正琴や弓も教わればよかったと、生前から気にしていたのに行動しなかったことをつらつらと思ったりします。
大好きな祖母が亡くなって、帰省する大きな理由がなくなりました。残る楽しみは、従姉妹の子どもたちや、これから生まれる妹の子どもの成長だけです。
そこはそれとして、離れてみても、大人になりきれない私は許すことも受け入れることもできず、ゆっくりと絶縁の方法を考えています。
幼い頃は盲目的に好いていた気がするのに、思春期の頃には拒絶感ばかりが募っていました。
あの頃、単身赴任が始まって家にいる時間が極端に減っていなかったら、私は高校卒業まで保たなかったかもしれません。
否定されるのが嫌で、怒鳴られるのも殴られるのも嫌で、同じ場所にいるのも、声が聞こえるのも嫌になりました。
否定しかしないそれを否定しなければ、自己肯定ができませんでした。
自分を守るために、関わらないでくれと懇願したのは高校生の頃です。一考もなくできるわけがないだろうと一蹴された瞬間、あれは私の中でバケモノになりました。
いつものことではありましたが、話し合いの余地などありませんでした。あれの中に「私」は存在しないんだと理解して、ああ、もうダメだなと思いました。
涙ながらに拒絶されたあれの心境はわかりません。もしかしたら傷ついたのかもしれませんが、普通なら、傷つくのかもしれませんが、あの時のあれは、私の言葉を理解してはいなかったように見えました。
生きる世界も、話す言葉も、聞こうとする心も違うバケモノなのだと、私の中で存在を切り捨てました。
もともと、たくさんのことを話す方ではありませんでした。
小中の頃は、まだ聞き役の方が多かったように思います。周りがどう思っていたかはわかりませんが。
高校生になって、同じ中学からの知り合いが一切いない中で、話さなければ自分を認識されないと、その頃から少しおしゃべりになったと思っています。「無理やりポジティブ」を心の中で唱え始めたのもその頃だった気がします。
小学生の頃、教室でノートに漫画を描いていた友人を真似して絵を描き始めました。漫画家になりたいと、真似から始まった夢のようなものでした。
話がまとまらなくて、イラストレーターを目指すようになりました。大学まで行って、色々描いてはいましたが、見えるのは自分が特別でないという現実だけでした。
大学を卒業して、高校大学と絵ばかり描いていたのに小説に手を出しました。初め、漫画家になりたかったのは、誰かに何かを伝えたかったからでした。
空っぽの私が、空っぽでないと、何かがあると信じたかったのかもしれません。
届けたかった言葉も、言って欲しかった言葉も、私は結局渡すことももらうこともできなかったから、キャラクターたちに、物語の中で自分の代わりに話をさせているような気がします。
自己愛だらけの、自分を慰めるための創作活動です。
それでも、受け取ってくれる人がいました。否定され続けた私が、肯定されたと思えたことでした。
「ていくはんず」というサークル名をつけたのは、高校生の頃です。直訳して「手をとって」。
そこまで深く考えていたわけではなかった気がしますが、今、増えた既刊を思い返すと、私はそればかりだなあなんて思ったりします。百夜通いの再録カバー用のイラストをもらった時なんか、ああ、これが書きたかったのかと思ったものです。
私自身は、誰かを巻き込むことも、誰かに巻き込まれることもいやで、時折友人に構ってもらいながら一人楽しく生きていく気満々ですが、きっとこれからも誰かが誰かの手を取る話を書くんだろうなと思います。