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昼寝日和

日記

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百夜通い-prologue-

祝!J.GARDEN36への参加決定(ありがとうございます!)につき、新刊サンプル的に冒頭部分を公開させていだだきます。

『百夜通い』
草町真(くさまち しん)くんと
小野将宗(おの まさむね)くんの話です。
お時間御座いましたら、どうぞお付き合いくださいませ。

「ね、百夜通ったら、オレのになってくれる?」

 背後から聞こえた言葉を理解出来ず、僕は寄りかかっていたベッドから背を浮かせて振り返った。そこにはベッドにうつ伏せに寝そべって僕の本を読む友人がいる。

 レポートを書くのに分かりやすい資料をくれとせがまれて、大学の友人である小野を一人暮らしのアパートへ招いたのは一時間程前だ。

 梅雨らしからぬ晴れ間が続いている、気の早い学生たちが期末レポートや試験の〆切、日程を確認したり、早くも追われたりし始める頃。

 部屋には扇風機の音と、時折本のページをめくる音が落ちるだけの、静かな土曜日の昼下がり。本を日焼けから守る為の遮光カーテンがふわりと揺れて、コップの中で小さくなった氷がカランと音をたてた。

 目線は文字から離れないから独り言かと思ったが、不意にこちらを見た小野と目が合う。

 いつも穏やかな印象を受ける彼の目が、知らない色をしている。光の加減で色を変える少し薄い色の瞳を見慣れたと思っていたのに、こんな色もするのか。

 言ってることもわからないが、その意図もまた理解しかねて問い返す。

「……なんだって?」

「コレ。百夜通い。小野小町のトコに百日通ったムネサダみたいに、草町のトコに百日通えたら俺の気持ちを受け入れてください」

「えーと……?」

 読んでいたらしいページを開いて示される。何度読んだか知れない、百人一首に選ばれた歌人たちの、平安の世の恋を描いた物語。高校生の頃に見つけて、恋を含め、当時の人の生き様を描く内容に惹かれて、折りをみて読み返している一冊である。

もう少し本を読んだ方が良い語彙力であるとは思っていたが、小野と話していて日本語が通じないと思ったのは初めてだ。

「……小野、ちゃんとそれ最後まで読んだか?レポート書くにはもう少し難しいものも読まないといけないけど、興味を持つとっかかりになればとわかり易いものを選んで貸したつもりなんだが」

「あ、そうなの?だからかー、わかりやすかった。昔の人の恋って難しいな」

 感想が小学生みたいだ。彼はちゃんとレポートを仕上げられるんだろうか。

「うーん……日付が変わる前、だと厳しそうだから、夜が明ける前までには草町に会いに来るよ、毎日。百日通うからオレのになって、草町」

 体を起こしてベッドを下りた小野は僕の隣に胡座をかいて、まっすぐ僕の目を見て言った。柔らかく目を細めて笑っている顔が一番印象に残っているのに、今は若干かたい気がする。

「小野って、思ってたより重い男だったんだな」

「重くたってなんだって、草町がオレの事好きになってくれるなら百日だって千日だって通うよ」

 冗談に冗談で返そうと思ったのに、核心部分の単語を口にされては流せない。

 僕に、小野を好きになれって言ってるのか。

「ほ、本気……?」

「本気」

 目が、そらせなかった。

 小野はもとから人の目を見て話をする。語彙が足りない気はあるが、理解力がないわけじゃない。噛み砕いて説明すればちゃんと理解する。

目を見て、相手の話を理解しようと心を砕いて聞いているのがわかる。相手の目を見て話す様は、解ってもらおうと足りない語彙を補っているように見える。

 だが、今の彼の目はいつもと少し違う。僕の言葉を理解しようとしているのではなく、僕の心の一番奥を見透かすような目だ。少し、怖い、と思った。

 一番大事なところを聞けないまま、問答を続ける。

「百夜って……」

「えーと、三ヶ月ちょい?」

「……その間、僕に毎晩小野が来るの待てって?」

「うん。今は電車もバスもある。牛車で橋を渡って落ちるなんてことないよ」

「僕に三ヶ月半外泊するなと」

「遅くなるならスクーターで迎えに行くよ。ココまで送る」

「あと一ヶ月もしたら夏休みだぞ。……旅行とか」

「は、行かないでほしい。つか旅行行くの?草町、出不精なのに」

 言われて、確かに旅行の可能性はとても低いな、と思い直す。夏休み中に出掛けるとしたら、図書館か行きつけの近所のカフェくらいだ。親が放任なので帰省しろとうるさく言われることもない。

「百夜通いの結末、知ってて言ってるのか。結ばれたわけじゃないんだぞ」

「うん。でも今は平成だよ。帝のお傍でなきゃ夢が叶えられないの!とかもないだろ?昔無理だったことでも、今ならできる」

「小野は僕を女官にしたいのか」

「違うよ、オレの恋人になってほしいの」

 遠回りして、脱線して、話題をそらしたつもりなのに、あっさりと核心に戻って来る。小野に会話で主導権を握られて取り返せない日が来るとは、正直思っていなかった。

「ね、それとも、オレをおいて親が連れて来た初対面のお見合い相手の女の子をお嫁にもらっちゃう?」

 その方が現実味がある普通の話であるはずなのに、雨の日のダンボールに入った捨て犬みたいな目で見られたら謂れのない罪悪感に苛まれる。

僕の両親が見合い話なんて持って来るとは思えないし、僕だって見知らぬ相手と将来を誓う未来なんて想像できない。だからと言って小野の話を飲む、というのもまた想像できない話だ。

 だって、小野は僕にとって。

「オレたちは友達だよ」

 そう、“友達”だ。

「百夜通いきるまではね。でも、百夜通えたら受け入れてほしい」

 こんなに切なそうな人の表情を、僕はこれまでの二十年弱の人生で見た事がなかった。失うことへの恐怖と、手放したくないと縋る熱情で、凍えそうで、熱い。

 僕も小野も男だろう、まだ初夏なのに頭が沸いたのか?今すぐ冷水浴びて冷やしてこい。そう言って切り捨ててもいいはずなのに、彼の恐怖が僕に伝播したのか、それを許さない。

 拒絶したら、もう二度と小野が僕の隣で笑う事はないのではないかという危惧が僕の行動を制限する。

 そう、恐らくこれは、友を失うかもしれない恐怖だ。

「……僕は、小野とはずっと友達でいるんだと思ってた」

「うん。オレもその方がいいと思ってた。でも、何にも言わないまま、しないまま終わりたくない」

「小、野」

 伸ばされた手が、僕の少し伸びた前髪の先に触れる。恐る恐る、という言葉をこんなに身近に感じた事はなかった。

「草町が、好きだよ」

「、僕は」

「オレのになってって言ったけど、答えが“イエス”じゃなくてもいいよ。百日通ってもやっぱり友達だったならそれでいい。オレはずっと草町の友達でいる。ただ……オレの気持ちを知っててほしい。……ワガママで、ごめんな」

 小野が笑う。口ではごめんと言っているのに、申し訳ないというよりは悲しそうに、泣くのを我慢しているように見えた。

 受け入れなくてもいい、知ってくれるだけでいいと言うくせに、瞳からのぞく心が突き放さないでとぐずっている。泣きそうな顔で笑うなと怒鳴りつけたい。

 “友達”でいると言ったけれど、彼は拒絶された相手に無邪気に近寄って行ける程に図太い人間だっただろうか。ぎこちなく笑って、少しずつ離れていく様が見えるようだ。ひどい脅迫があったものである。

 友達に好きだと言われて、バッサリ切って捨てることもできなくて。

「本当に、わがまま……」

 泣きたいのは、僕の方だ。


 時は少々遡り、僕が大学へ進学して一月が経とうとしていた頃。

 世の中はゴールデンウィークを間近に控えて浮き足立っていたが、僕は新しい環境、主に大学の大きな図書館の存在に浮き足立っていた。大学の講義はもちろん興味深かったが、身近に現れた新しい宝箱は僕の心をつかんで放さなかった。

 何事もなければ四年は通えるのだから急ぐ必要もなかったのだが、その時の僕はやはり浮かれていて、連日図書館に通い詰めていた。新しい出会いに浮かれた同級生と浮かれる対象が違っただけだ。

 連休中は家庭教師のアルバイトも休み。狙っていたシリーズ物を読破しようと本棚を物色していた時である。

 平均身長の僕でもギリギリ届くかどうかという、天井近くまである本棚の上から2段目を見上げ、僕は背伸びをする労力と踏み台を探して持って来る労力を天秤にかけていた。ほとんど睨んでいた目当ての本が目の前で棚から引き抜かれる。

 自分の思案と現状を整理していたら、かけられた声が自分に向けられたものだと理解するまでに少々時間がかかってしまい、相手に大変不安そうな顔をさせてしまった。

「えっと……コレで、よかった?」

 身長や体格にこだわりも劣等感も抱いたことはないけれど、高い所に手が届くのはやはり便利だな。僕がそんな事を思いながら隣に立って本を差し出している男の顔を見上げると、やわらかい逆光の中で、首を傾げる男の髪が揺れた。

「あぁ、合っています。ついでに、その隣の三冊も取ってもらえると助かるんですが」

「あ、うん。わかった」

 これ幸いと頼んだら、親切な彼は嫌な顔一つせずに一冊ずつ丁寧に本棚から下ろしてくれた。軽めの辞書並に厚さと重さがあるので、その判断は正しい。

自分の手の中の重みに早く読みたいという欲を刺激されながらも頭を下げる。

「ありがとう。助かりました」

「あ、の!これからっ、その、時間……あるかな」

「……はい?」

 礼を言って立ち去ろうとしたら、腕を掴んで引き止められたので面食らった。慌てた様に非礼を詫びても、僕の腕を掴んだ手は力を抜いただけで放そうとはしない。

室内であるのに薄い色の入ったサングラスとしていて視線はうかがい難いが、緊張を表す様に唇は引き結ばれていた。

「近くに、静かでコーヒーが美味しくて、読書するにはピッタリな喫茶店があるんだ。ケーキとかお菓子も少しだけどあってさ、マスターがまた良い人でホント、おすすめ・・・な、ので、行って、みませんか」

 早口にまくしたてたかと思うと、最後は尻窄みに提案された。

一刻も早く手の中の本を読みたかったが、今は講義を終えたおやつ時。読み始める前に何か食べておいた方が後々を考えるといいかもしれない。

読んでいる間は空腹も忘れるが、問題は読み終わった後だ。何度か動けなくなった苦い経験がある。

 黙って考えていたら、掴まれていた腕が解放された。顔を上げてみると、わかり易く眉尻を下げて俯いているのが目に入った。折角親切にしてもらったのに悪いことをした。

「あの、そこは軽食も摂れますか」

「!うん!サンドイッチも美味しいよ!でも一番のオススメは裏メニューの焼きおにぎり!」

 僕が問うと、勢い良く顔を上げて力説される。彼の少し長めの前髪がさらさらと揺れた。一応図書館内であるので声を落とすよう注意すると慌てて口を手で塞ぐ。子どもみたいだ。

「じゃあこれ、借りて来ちゃおう。半分持つよ」

 さっきまで耳を垂れて落ち込む子犬のようだったのに、僕から本を奪って(半分と言ったのに全部持って行かれた)カウンターを目指す後ろ姿にはちぎれそうな程嬉々として揺れるしっぽが見えるようだった。

 その後、アパートと大学の中間くらいという素晴らしい立地の、裏メニューの焼きおにぎりが絶品な喫茶店で共に食事を摂った。余りの美味しさにろくに会話もせず食べ終えると、読書の邪魔になると立ち去ろうとした恩人の名前も知らないことを思い出し、今更な自己紹介をしたあの日から、小野将宗と出会ったあの日から、一年と少しの時が経っていた。

 そうか、小野と会ってから一年以上経っていたのか。

 もう一年なのか、まだ一年なのか、判断しかねるなとあの日二人で来て以来常連となっている喫茶店で一人、コーヒーをすする。

 一年も経てば、流石の僕にも数人の友人ができた。決して多くはない彼ら彼女らは、会えば挨拶を交わし話をするが、学外で会うことはそれほど多くない。飲み会や学生らしい遊びに数えられる程度に誘ってはくれる。だが、僕が許容できる範囲を見極めてくれているようで不快な思いをした覚えはほとんどない。

本の虫だ変人だと揶揄されることもあるが、だからこそ議論が面白いと言ってくれる有難い存在だ。この距離感が、ちょうど良かった。

 そんな、広くはないが充実した交友関係の中、小野は異彩を放つ存在だ。

 学部は同じだが専攻の違う彼は何くれと僕を構う。食事や睡眠が疎かになっていると苦言を呈して世話を焼く。時には課題がわからない終わらないと泣きついて来ることもあった。かと思えば何をするでもなく隣に来て時間を共有して去って行く。

 会えば話す、という友人がほとんどの中、小野は僕を探して、見つけて、駆け寄って来る珍しい存在だ。言い方は悪いかもしれないが、犬に懐かれた気分だった。懐かれているのだと、思っていた。

 だが、実際は明確な好意を持っての行動だったらしい。

 僕は日本文学を中心に様々な本を読む。文化としての男色の知識はあったし、偏見も嫌悪も抱いてはいないつもりだ。思想も恋愛も性癖も、内容は個人の自由である。

だが、知識はあってもまさか当事者になるとは思っていなかったので驚いた。自身がそういった目で見られることを想定して生きてこなかったので、どうしたらいいのかわからない。

 性的マイノリティに偏見も嫌悪もなく、小野も無理に事を運ぼうとはしないから強く拒絶することも出来ずに、驚きと困惑が僕の中で渦巻いていた。

 あの告白から一夜明けた今日、小野からの連絡はまだない。

 すっかり冷めたコーヒーを胃に流し込んで席を立つ。すっかり顔なじみのマスターに声をかけ、会計を済ませると目の前に小さな紙袋を置かれた。顔を上げてマスターをうかがう。

「持って行きなさい。腹が空いている時にあれこれ考えても、ろくなことにはなりません」

 紙袋の中を覗くと、アルミホイルに包まれたまるっこい三角が三つ。コーヒー一杯で、いつもの読書もせず居座っていたから、気を遣ってくれたのかもしれない。

「ありがとうございます」

 口数の少ないマスターのありがたい言葉と、冷めても美味しい好物の焼きおにぎりを抱えて僕は家路についた。

 風呂上がり、就寝までにもう少しレポートを進めておくかと資料を物色していると、呼び鈴が鳴った。来客の心当たりはあったので、確かめることもせずに鍵を開けてドアを開ける。

「コンバンワ」

 案の定、そこには小野の姿があった。まだ熱の残る頬に夜風が気持ちいいけれど、薄手の七分丈からのぞく彼の手は少し肌寒そうに見える。

「……こんばんは」

「今、誰が来たか確認しないで開けなかった?チェーンもかけろって言ってるのにまたしてなかっただろ……不用心だなぁ」

「大きなお世話だ。普段は忘れなければ確認もチェーンもしてる。女子じゃあるまいし呆れられる謂れはない」

「呆れてるんじゃなくて心配してんの!それに、草町はそこらの女子よりかわい」

「帰れ」

「ごめんなさい冗談です!もう少しお話させてください!」

 余りにも小野が必死なので、閉めようとしたドアをもう一度開く。閉め出されなかったことに安心したような小野と目が合ったが、すぐに逸らされてしまった。

 若干慌てた様に、がさごそと肩に提げたショルダーバックの中を漁り始める。いくらもしないうちに目当てのものを見つけて、小野は僕の目の前にソレを掲げた。

「コレ。百人一首買って来た。百枚あるから、一枚ずつ持ってくれば何日通ったかわかる、よね……?あれ、絵が描いてあるのとないのが」

 僕の目の前で、先ほど買ってきましたと言わんばかりの新品の包装を解きながら、彼は首を傾げた。自分で買ったものが何なのかわかっていないらしい。

「百人一首のカルタだろ、それ。読み札と取り札だよ。下の句の文字しか書かれてない方が取り札。四月にデモンストレーションやっただろう」

「え、そうなの?あの時はiPodだったから……あとで調べよう。ん?てことは二百枚あるのか。えーと……どっちがいい?」

「……僕は取り札の方でいい。小野は読み札の方で百人一首覚えたらどうだ?」

「……うん、わかった」

 数秒僕の顔を見た小野は、取り札の一番上の一枚を取って僕に差し出した。僕が受け取るのを見届けて、ほぅと息をつく。

「……よかった、受け取ってくれるんだ」

 安心したような、申し訳無さそうな呟きだった。

 受け取った一枚目に視線を固定したまま、僕は今日一日、本も読まずに考えていたことを思い返す。顔を見て話せる程自信を持てはしなかったけれど、それでも僕の今の正直な心を伝えておくべきだと思った。

「僕なりの、誠意のつもりだ。昨日、小野が言った事を冗談や気の迷いだとは思ってない。男同士だからとか、そういう常識のために捨てられる程度の気持ちじゃないから僕に話してくれて、こうして気持ちを証明しようとしてくれてるんだと、思う」

 小野が、少し驚いているのが気配で伝わって来る。やっぱり、目を見て話すべきだろうか。彼がそうしてくれたように。

「正直、小野を友達以上には見られないと思う。でも、小野は宗貞みたいに百夜通うって言い切った。だったら、僕も吉子の様に待てるだけ待つべきだと思った。僕は小野と対等でいたい。僕の都合で小野の気持ちを蔑ろにするのは、違うと思う。……上手く伝えられなくてすまん」

 自分の中で消化しきれていない気持ちをなんとか言葉にしようとしたけれど、伝わっただろうか。いつもの様に、いつも以上にまっすぐに僕の目を見て話を聞いてくれた小野は、笑って言った。

「ううん。充分だよ」

 昨日から固い表情ばかり見ていたから、小野の笑顔をなんだか久しぶりに見た気がする。なんだか安心して、手の中の札を握りしめた。

 僕の緊張が解けたのを察したのか、殊更冗談めかして顔を覗き込まれる。

「……捨てないでね?」

「それはフリか?」

「いえ!断じて!ほんとマジで捨てないでくださいレジ袋につっこんどくんでも何でもいいんで!」

「……ふ、わかったよ」

 冗談に冗談で返したのに、本気で焦って懇願する様がおかしくて、小さく笑いが漏れる。くすくす笑っていると、真剣な声音で名前を呼ばれた。

「・・・・・草町」

「ん?あ、悪かったな、こんなところで。上がってくか?お茶でも……」

「好きだよ」

 思わず息を呑んで小野の顔を凝視した。

 穏やかに、優しげに、色素の薄い目を細めて笑っている小野と視線が絡む。一瞬「愛おしそうに」という形容が脳を霞めて、言葉が出て来ない。

「今日はもう遅いから帰る。ちゃんと髪乾かして、風邪ひくなよ。おやすみ」

「あ、うん……おやすみ」

 彼はすぐにニコっと笑って、僕が首にかけていたタオルで僕の頭をわしわしと拭いた。またね、と手を振って去って行く小野を呆然と見送る。

 小野の微笑みが、網膜に焼き付いたみたいに消えない。彼は感情がすぐに顔に出るから色んな表情をたくさん見て来たと思っていたのに、昨日から知らない顔ばかりされる。戸惑ってばかりで調子が狂う。

「……もう、今日は寝よう」

 ひとりごちてドアを閉め、施錠してチェーンをかける。レポートに集中できる気がしない。

 それどころか、寝られるかどうかも少し不安になる程度には脳内がパニックだった。

 毎週、月水金の夜は家庭教師のアルバイトがある。学校の最寄り駅から八駅先、三十分ほどモノレールの緩やかな振動に揺られた先にバイト先の家はある。

 高校の恩師の昔の教え子の娘さん、藤崎崇子さんは三つ年下で、今は高校二年生だ。

 宿題や自主学習に付き合ってわからないところを解法へ導く、たまに本を貸したり、その感想や考察を話し合うという緩い指導方針が功を奏したらしい。最初は若干面倒そうにしていたものの、慣れてからは大人しく僕の拙い教鞭に耳を傾けてくれている。

 昼間の講義を終えてから適当に時間を潰し、崇子さんが部活を終えて夕飯を済ませる夜の八時半頃からが僕の仕事の時間だ。いつも通り、彼女の質問に答えたり本を読んだりして二時間程を過ごす。

 この日もつつがなく緩い授業を終えた僕が玄関で靴を履いていると、背後から柔らかい声がかかった。

「草町くん?これ、今日の夕飯の残りで悪いんだけど持って行って?」

「あ、いつもすみません。ありがとうございます、おばさん」

 藤崎夫人は料理が得意で様々なものを作る。時々はこうして分けてもらったり、食卓にお邪魔することもあった。

「いいのいいの。また時間のある時はウチでご飯食べて行ってね?わたしも主人も楽しみにしてるのよ。それでね、草町くん」

「はい?」

 おばさんはいつもにこやかでふわふわとした印象だ。崇子さんはどちらかというとおじさん似で、口数もさほど多くない穏やかな子である。

 おばさんは僕の傍に膝をついて、おかず入りタッパーが入った袋を差出しながら上目遣いに尋ねる。

「何か、あったのかしら?」

「は、い……?」

 直後には身に覚えのない質問に疑問を持ったが、土日の小野とのやりとりを思い出してしまって袋を受け取ろうとした手が中途半端な所に浮いてしまった。

「うふふ、ごめんなさいね。余計なお世話なのはわかってるんだけど……崇子がね、珍しく『草町くんにあげられるおかずある』ー?なんて聞いてくるから。なんだか心ココにあらずで調子悪いのかもしれないって、こんなの今までなかったって、心配になっちゃったみたい。だいじょうぶ?」

 まさか、崇子さんにそんな印象を持たれているとは思わなかった。いつも通り、だと思っていたのに、どこがおかしかったのだろう。

「大丈夫です。……ちょっと、寝不足だったかもしれません。ご心配おかけしてすみません」

「そーお?無理しちゃだめよ?草町くんにだってテストとかレポートとかあるんだし、無理なときはバイトもお休みしていいんだからね?」

「はい。ありがとうございます。おかずも」

「うんうん。たくさん食べてちゃんと栄養を摂るんですよ?」

「はい。失礼します。おやすみなさい」

「はい、お疲れさまでした。また水曜日にね。おやすみなさ~い」

 おばさんに見送られてマンションを出る。いつもは崇子さんも見送りに出てきてくれていたが、今日は気恥ずかしかったのかもしれない。

 それにしても、女子高生に指摘されるなんて。そこまで悩んではいないつもりだったのだが、慣れない事をしているせいか本調子とは行かないようだ。

 慣れない事をするのは疲れる……。

 誰かを意識するのがこんなに振り回されるものだとは知らなかった。

 そういえば、小野は何時頃来るのだろう。携帯を開くが、着信もメールもない。大学でも会わなかったから、まだ今日は顔も見ていなかった。僕の帰宅が遅くなることは知っているはずだが、こちらから連絡をした方がいいのだろうか。

 小野は新聞配達のアルバイトをしている。伯父さんの紹介だとかで、朝刊、夕刊、はたまた牛乳などなど、テストや課題のためにシフトを融通してもらう代わりに便利に使われているらしい。彼のバイトは不定期だから行動が予測できない。

「……やめた」

 開いていた携帯を閉じて鞄にしまい、モノレールの窓から都心程ではない、民家の灯りに照らされた夜景を眺める。

 小野小町のように、待てるだけ待つと言ったのは昨日の僕だ。あの時代の女性が男を待つ切なさや寂しさや、待ち遠しく思う恋情はわからないけれど、いつ来るともしれない相手を待ち続けるのに覚悟が必要なことだけは、少しだけ理解できた気がした。

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最近の現実逃避方は料理。

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